「エイジアンブルー 浮島丸サコン」再上映に寄せて


連載第132回 『ねっとわーく京都』2015年12月号掲載

井上 吉郎(〈福祉広場〉編集長)

〈戦後70年 映画『エイジアンブルー 浮島丸サコン(堀川弘道監督、1995年、111分)上映&トークショー〉と銘打った集まりが12月6日に開かれる。

1945(昭和20)年8月24日の夕刻5時過ぎ、舞鶴湾内の佐波賀(さばが)沖300mで、海軍特設艦船「浮島丸」(4,730トン)が爆発し沈没した。公式発表では、乗船していた朝鮮人労働者など549人が犠牲になったとされている。戦後の海難事故としては、「洞爺丸事件」に次ぐ犠牲者数にも関わらず、事故当時はもちろんのこと、いまもなお十分には知られていない。

船は、朝鮮に帰る人々を乗せて、8月22日、青森県大湊を出港した。ようやく故郷に帰れると、乗り組んだ人は華やいでいたという。米軍の命令を受けて、浮島丸は,釜山に向かわないで東舞鶴の港に寄ることになった。そして爆沈した。いやいや連れてこられた「日本本土」で、鉄道工事などに動員されていた朝鮮人を、故国まで無事に送り届ける義務が日本政府にはあった。映画はこの史実を踏まえて、事件から50年の節目の年である1995年に、異国で「無念死」した人々の追悼の意を込めてつくられた。

昭和18、19(1943、44)年の8月16日、京都五山に送り火は灯らなかった。灯火管制が徹底されたこと、山にマキを運び上げる男子労働力が確保できなったことがそこにはあった。戦争が送り火を直撃したのだ。ところが、如意ヶ岳(大文字山)のふもとの国民学校の生徒や市民は、当日の朝、白色に身を固めて、山に登った。「英霊」を弔うためにラジオ体操をしたと新聞記事は伝えている。今に伝わる「白い大文字」だった。

「エイジアンブルー 浮島丸サコン」の映画化を決めていた僕ら映画をつくる会のメンバーは、「白い大文字」を50年ぶりに再現しようと、全国に呼び掛けた。映画のシーンとしても使いたかったからだ。50年前を思い起こして全国から参加して下さった。そして1994年9月23日、1200人で「白い大文字」を再現した。白い服を着た参加者は、眼下に広がる京都市内を見やりながら、「故郷」を歌った。新しい、緩やかな「反戦運動」でもあった。

映画は史実に想をとったもので、日本と韓国を結ぶ骨の太い作品、京都や舞鶴の市民をはじめ、全国の人が制作資金を寄せてくれ、エキストラに応じてくださった。狂言役者・茂山千之丞さんは、主役の姉妹が下宿する家の大家さんだった。姉妹の父親が書いた「今様」(いまよう)を、大家さん(千之丞)が朗々としてうたいあげるシーンが印象に残る。映画への友情出演(NOギャラだった)を『朝日新聞』は「人」欄で扱ってくれ、そこでの発言を「最近の言葉から」と題して「天声人語」で紹介してくれた(1995年5月28日)。

〈狂言役者の茂山千之丞さん、京都市民などが作った敗戦直後の浮島丸事件の映画に無料で出演。「埋没している事実を事実として残すのは戦中派の人間の義務なのです。…事なかれでなく事あれ主義。行動を起こさないと世間に伝わりません〉。

監督の堀川弘道さん、脚本の山内久さんも亡くなられた。『あすなろ物語』(1955年)で監督デビューした堀川さんには本作までの40年間、30本弱の監督作品がある。監督は歴史的事実に関して、スタッフを信用していた。日本の朝鮮支配に横たわる加害の問題に見識を示した。韓国では、日本の大衆文化が開放されていない時期の映画製作にもかかわらず、監督の笑みを絶やさぬ指揮ぶりは忘れ難い。

僕らが映画を創ったとき、タイトルに「エイジアンブルー」を使った。「アジアの海」という未来に開かれた意味と、「アジアの憂欝」という意味があった。戦後間もなく、祖国・釜山をめざして青森を出港した浮島丸が、舞鶴湾で爆沈するという歴史的惨事を下敷きにした映画だった。数百人の死者にとってはもちろん、すべての人にとって悲しみ、失望、憂鬱な出来事、事件であった。そんな気持ちを込めて、映画は、「エイジアンブルー」と名付けられた。

〈戦後70年 映画『エイジアンブルー 浮島丸サコン&トークショー〉
●日時・場所:12月6日<日>午後2時〜、立命館大学朱雀キャンパス大講義室
●入場料:1000円<前売り>、学生500円
●主催:戦後70年 映画「エイジアンブルー 浮島丸サコン」を見る会(シネマソラ<202-2211>)。
●共催:立命館大学コリア研究センター
●第1部:映画上映。第2部:トークショー(主演の藤本喜久子さんや立命館大学国際関係学部の文京洙教授のお話)