アメリカから日本を考える


連載第153回 『ねっとわーく京都』2017年11月号掲載

森 裕之(立命館大学教授)

昨年度(2016年度)1年間、アメリカのコーネル大学に留学する機会を得た。奇しくもトランプ大統領が誕生した選挙の年であり、現地でさまざまな動きを見聞することができた。

大統領選挙の最中から、トランプは白人至上主義者をはじめとする特定の大衆を扇動してきた。メキシコ人を犯罪者呼ばわりし、イスラム教徒をテロリストとして国外追放するとした。

気に入らない記者に対しては、彼の身体障害あざけるパフォーマンスを平然と行った。民主党の大統領候補であったクリントンに対して「武器を取れ」という発言まで行った。かりにトランプの言葉を真に受けた者がいれば、クリントンは殺されていたかもしれない。

アメリカでは、このような権力者による行動を自分たちの問題として受けとめる姿勢が強い。人々や団体が勇気を持って立ち上がり、悪しき権力者を強く批判する。

トランプの移民政策に反対した多くの自治体が「Sanctuary」(聖域=不法移民であっても守護すること)を名乗りでた。

彼が地球温暖化対策の国際ルールであるパリ協定から離脱すると発表した直後から、主要都市はパリ協定の取組を実践していくことを表明した。司法も移民政策に関する大統領令は違憲であるという判断を下していった。大都市では頻繁に大規模なデモが行われ、差別を憎む人々のさまざまな声が発せられた。

コーネル大学でも学生たちが中心となってトランプを厳しく非難する集会が行われ、それを教授たちが支援した。大学図書館はギャラリーを使って「アジアのイスラム教」と称した展示を行い、トランプの移民政策を批判した。研究教育棟では「Sanctuary」という横断幕があちこちに掲げられた。コーネル大学がある人口3万人のイサカ市でもデモが行われ、ダウンタウンに1万人が集まった。こうした取組はアメリカの大小様々な地域でみられた。

政治家の許されざる大衆扇動は日本でも同様である。「構造改革」や「郵政改革」で一世を風靡した小泉内閣はその嚆矢であった。それが最も先鋭的な姿をあらわしたものこそ、大阪の橋下・維新現象にほかならない。

橋下徹は自らに意に反する組織、メディア、学者・文化人などに対して、ツイッターや会見を通じて露骨な弾圧や個人攻撃を加えていった。

橋下に煽られた大衆は、彼が自分たちに与えた色眼鏡だけで物事を解釈し、同じように「敵」を攻撃した。橋下・維新の「敵」が街にあらわれると、それが瞬時にSNS上で情報拡散される事態も起こった。橋下が特定の新聞を攻撃した翌日には、それに同調した者たちからの電話が新聞社に殺到した。メディアの露出度が高い批判的な学者に対しては、橋下・維新は国会の場で執拗な個人攻撃を行い、大学にも破廉恥な圧力を加えた。

このような現象は安倍政権にも伝播している。官邸は加計学園問題で官邸批判を行った元文部科学事務次官の人格を攻撃し、一部の大手新聞は彼の行動をスキャンダルに仕立てて個人攻撃するという愚挙に出た。加計問題を追及する記者とその新聞社に対して、官邸は書面による「注意喚起」という名の口封じを行った。そのことが記者に対する脅迫を引き起こしたにもかかわらず、官房長官は「個人の行動であって政府として関知しない」と言い放った。

こうした政治による権力的な大衆扇動に対して、日本社会はアメリカのような強い拮抗力を持っていない。そこにはまるで他人事としかとらえない冷淡な空気がある。橋下のような民意を楯にした全体主義的リーダーがあらわれれば、人々はそれに同調しない少数者に対して突如として凶暴化してしまう。それによって言論や表現の自由が脅かされても、当然であるかのような風潮が広がる。

アメリカに比べると、日本は思想・言論・表現などの精神的自由に対する意識が社会に根付いていない。それは戦後の民主化において、自分たちの力で戦時中の反省を真剣に行い、自由を内面化するという営為が国民全体として欠如していた結果であろう。

社会における拮抗力を取り戻すためには、国民一人ひとりが精神的自由について深慮・実践することが求められている。刻々と次の戦争が迫ってくる中において、それは喫緊のテーマとして我々に突きつけられている。(本文中敬称略)